あしげ日記:2021-3-16

あしげ日記

昨日の話(あしげ日記:2021-3-15)で、日本人なら「足の裏や横に大きな傷をつくる手術」より「小さい傷の手術の方がいい」と言っても納得するところを、英語ネイティブは「足に大きな傷」→「早期に荷重すれば傷が開く可能性がある」→「小さな傷だと早期に荷重しても傷が開く可能性は少ない」→「だから小さな傷の手術のほうがよい可能性がある」とくどくどと説明しなければ納得しない、ということだったですが、ではなぜ日本人は「足の裏や横に大きな傷」→「小さい傷の方がいい」といきなり飛んでも納得できてしまうのでしょうか。

これには、「論理を感覚でおぎなう」という、日本人特有な思考法が関係しているように思います。おそらく日本人は「足の裏や横に大きな傷口」と聞くと、それを身体感覚として「痛そうだ」と思い、同時にそれによって価値判断します。言葉から受ける感覚によって「大きな傷口は悪い」と価値判断が終了しているので、すぐに「小さい傷の方がよい」に移れるのだと思います。

対して、英語ネイティブでは、「足の裏や横に大きな傷口」と聞いたとき、そこから来る感覚的なもので判断するのではなく、それが客観的な事象として認識するするため、「傷が大きい」のは「すぐに悪いもの」とはならず、したがって「傷が小さいのはよい」とはならないのでしょう。

自分ではしっかりと論理的に書いているつもりが、日本人特有の思考のしかたによって、無意識的に英語ネイティブから見れば論理の飛躍をしていることに気づかされたのは、今回の大きな発見でした。

しかし、このような日本人的な論理展開は、逆に科学の世界で有利に働くかもしれません。純粋に論理だけを積み上げていくのならば一歩一歩ゆっくりと進まざるを得ませんが、論理と感覚をうまくミックスさせれれば、ところどころ飛躍があるにせよ、感覚的におおむね間違っていない結論に早く到達することができるため、あとからその論理の飛躍を適切に埋めることができれば、一足飛びの進歩が期待できるからです。21世紀に入ってノーベル賞が多いのが、がちがちの論理で固めるアメリカに次いで感覚的な日本である理由は、こんなところにあるのでしょうか。

ほんの10年位前まで、東大の現代文の第2問は、文章を読ませた上「感じたこと・考えたことを200字以内で書け」という作文でした。「感じたこと」「考えたこと」は本来別のものであるはずなのに、日本人の中ではそれが必ずしも分離していない、それがゆえに、感じたことと考えたこととをうまく融和させながら知を構築する、それが日本人としての知であり、それがうまくできる受験生を東大は求めている、というメッセージだったのかと思います。卒業して随分と経ちますが、いまだに受験生の当時と同じ課題に取り組んでいます。

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